最近、うーん、なんか違うな・・・と思うことがあります。
上手く言葉にできないんですが。
読んでくださっている方、なんのことかわからないと思います。
ごめんなさい。
「書くこと」「表明すること」に、
最近とても苦痛を覚えるようになって
来ているのも事実です。
何かをわかりきったような心を、私はもっていないだろうか。
書くことによって整理されることがあるし、
シェアしたいから、書いてます。
けれど、それに賛同する人たちばかりの中に
私はひたっていないでしょうか?
すごく気になるのです。
そして、言葉だけがあるいていないか、それも気になります。
語っても、その言葉の余韻だけを求めていないだろうか?
行動できているだろうか。
私を変えるきっかけとなっていた「心世紀」
「神とともに」を読んで思っていることですが。
多くを語るよりも、まず一つの行動を。
話は少しそれますが、
人の話を聞こえてない、というか見えてないというか
そんな人が私の周りには多い感じが今しています。
きっと自分のことに精一杯で、周りが見えてないのだろうと
思うのですが、その場合に、すごく自分の感情だけや
状況だけを周囲に流しているのです。
それがいけないとか、だめだとかは思ってません。
私もしていたから。
私も自分がしんどくなったり、苦しくなったりすると
やっぱりどこかで吐き出したくなりますし、
聞いてもらいたくなります。
けれど、今この瞬間に吐き出そうとしたり、聞いてもらったりしても、
結局はすべて自分の問題であることを、自分で認識しない限り
なにも解決しません。
当たり前のことを書いているように思われるかもしれません。
すべては自分に帰ってくる。
とても信頼する人に、自分のことを聞いてもらう。
そしてわかってもらったり、アドバイスをもらったりする。
そのときはシェアできているのでしょう。
しかし、いくら他人とシェアしても、自分にフィードバックして、
自分の中で解決をみなければ、また同じことをする気がします。
何か問題が起きるたびに、何か辛いことがおきるたびに
同じように、賛同してくれる人や、シェアしてくれる人を求めるのでしょうか?
違う気がしてなりません。
まず誰かに話す前に、まず誰かに賛同してもらう前に、
自分の中に、そして自分の目の前にある人と
その問題をみようとしていますか?
いきなり一足飛びで、色んなことを語ろうとするまえに、
まず自分の中で自分を見つめることをすることが先ではないのか。
たとえ、聴こえようが、見えようが、今あるこの見えている瞬間の
世界を、人を、自分を、私の問題として、私の世界として
私がちゃんと受け止めているのか。
おごりはないか。
わかった気になっているときが、いちばんわかってないこと。
気になってます。
違和感なんです。
そうしていると、どんどん語れる言葉が少なくなってきて。
私は私のまま、歩くことが、行動で示すことが
困難な道であっても、必要なのかもしれないと。
たくさん言葉を繰ってきただけではないかな。
自分を見つめたいと思います。
なので、ちょっと更新ペースが乱れたり、
形態が変わるかもしれないです。
(変わらないかもしれないけれど)
発信することだけにとらわれていた気がして。
違和感ともう少し付き合ってみます。